三増峠の合戦
2009年 10月 09日
日曜日にハーレーで走りに行った三増峠。
(手前の旗の「ミツウロコ」の家紋は北条家、奥の旗の家紋「武田菱」が武田家)
ここで武田信玄VS北条氏康という2大勢力が激突する。
元々武田、北条は同盟関係にあったが信玄の駿河(静岡県中部)侵攻で破綻する。
信玄は関東にも版図を広げるべく北条領に侵攻する。
攻めの武田、守りの北条と言っていいぐらい両軍の戦い方は対照的。
信濃(長野県)、上野(群馬県)、駿河そして上洛とあちこち転戦している信玄に対し巨城「小田原城」を基点にじっくり守ってカウンターみたいな戦いでじわじわと関東にその勢力を広げてきた氏康。
かつて上杉謙信にも関東の豪族合わせて10万という兵力でも落ちなかった大城塞・小田原城。
この時の武田の兵は2,3万だったから当然落とすことはできなかった。
信玄も最初から城を落とすつもりはなく言わば牽制のためのデモンストレーション。
軽く城を囲んで早々に引き上げる。
しかし氏康にしてみればこのまま攻められっぱなしで返すわけにはいかない。
ここで氏康は同族の北条氏照に命じて信玄の甲斐(山梨県)への帰路にあたる「三増峠」に伏兵を配し小田原からの氏康本隊と挟撃するという作戦を立てる。
しかしこれを察知した信玄は密かに氏照軍の伏兵のさらに外側に伏兵を置くという作戦を立て氏照軍を逆に挟み撃ちにしてしまう。
この戦いは武田軍の圧勝で氏康本隊がたどり着く前に決着がついてしまい氏康は小田原に退却せざるをえなくなる。
名将の誉れ高い氏康だったがさすがに信玄のほうが一枚上手だったようだ。
最初の戦国大名と言われる「北条早雲」を家祖に持ち、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代続いた北条氏。
謙信10万の大軍にも耐えた小田原城だったが豊臣秀吉の25万の軍に攻められついに落城、ここに後北条氏は滅亡する。
(今日はちょっと時間があったので長々と書いてしまいました。ここまで飽きずに読んでくれた人ありがとうございます。)
(手前の旗の「ミツウロコ」の家紋は北条家、奥の旗の家紋「武田菱」が武田家)
ここで武田信玄VS北条氏康という2大勢力が激突する。
元々武田、北条は同盟関係にあったが信玄の駿河(静岡県中部)侵攻で破綻する。
信玄は関東にも版図を広げるべく北条領に侵攻する。
攻めの武田、守りの北条と言っていいぐらい両軍の戦い方は対照的。
信濃(長野県)、上野(群馬県)、駿河そして上洛とあちこち転戦している信玄に対し巨城「小田原城」を基点にじっくり守ってカウンターみたいな戦いでじわじわと関東にその勢力を広げてきた氏康。
かつて上杉謙信にも関東の豪族合わせて10万という兵力でも落ちなかった大城塞・小田原城。
この時の武田の兵は2,3万だったから当然落とすことはできなかった。
信玄も最初から城を落とすつもりはなく言わば牽制のためのデモンストレーション。
軽く城を囲んで早々に引き上げる。
しかし氏康にしてみればこのまま攻められっぱなしで返すわけにはいかない。
ここで氏康は同族の北条氏照に命じて信玄の甲斐(山梨県)への帰路にあたる「三増峠」に伏兵を配し小田原からの氏康本隊と挟撃するという作戦を立てる。
しかしこれを察知した信玄は密かに氏照軍の伏兵のさらに外側に伏兵を置くという作戦を立て氏照軍を逆に挟み撃ちにしてしまう。
この戦いは武田軍の圧勝で氏康本隊がたどり着く前に決着がついてしまい氏康は小田原に退却せざるをえなくなる。
名将の誉れ高い氏康だったがさすがに信玄のほうが一枚上手だったようだ。
最初の戦国大名と言われる「北条早雲」を家祖に持ち、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代続いた北条氏。
謙信10万の大軍にも耐えた小田原城だったが豊臣秀吉の25万の軍に攻められついに落城、ここに後北条氏は滅亡する。
(今日はちょっと時間があったので長々と書いてしまいました。ここまで飽きずに読んでくれた人ありがとうございます。)
by soumei-a
| 2009-10-09 22:27
| 戦国時代考